母と一緒「文蔵の滝」

 八十五歳まで滝行していた母。

あのパワーは何処から来るのだろうか。

 歩きへ遍路に行こうと言い出し、

実行した母も今年九月で九十三歳になる。

 滝までの急な坂道は、片手で手すりを持ち

もう一方の手を引いてもらって辿り着く。

 しかし、焚火に入れる木々を集めるために

二百メートルぐらいの距離だと、大きな倒木を

引っ張ってくるのだ。

 この場所には、普通では考えられない

エネルギーがあるのだと、母を通していつも

感じる。

 「実際母の顔が若くなるのだ」。

 身体に力と若さを持って帰りたい人は

滝に来てください。

 毎週土曜日に待っています。

072-297-4765 こいぜき

 

 

 

 

 

千切り絵ー「文蔵の滝」

 滝に咲く桜の花は、光を通して見ると

白の中に薄いピンクがまじるようになった。

 薄緑の柔らかい葉が沢山芽吹いている。

次の雨がシャワーのように、すべての花を

流してしまうだろう。

 シャガ、シヤクナゲと目を楽しませてくれる

花がまだまだ続く。

 4、5月の暖かさで、植物も忙しいことだと

感じているのではないだろうか。

 滝つぼにも桜の花びらが舞い落ちてくるが

風圧で巻き上げられ、濡れた岩肌一枚一枚

張り付いて、「千切り絵」のようだ。

 フキノトウに変わって食欲を満たしてくれる

のは、大きく成長した「蕗」である。

 指、爪のなかまで黒くする、灰汁を抜くこと

からはじまり、佃煮にしていただく。

 自分自身も灰汁が抜けて、味わい深い

人になれるように頑張ろう。

 

 

 

 

 

橋ー「文蔵の滝」

 鳥媒花の代表的な「椿」。

花が上向きに落ちている様子は、

まるで地の女王が出て来たみたいだ。

 高所に沢山の「椿」があったのを、

はじめて見上げて知るのである。

 「ペンキ塗りたて!」の張り紙が橋の手前

にあり、いっしゅん渡るのをちゅうちょさせる。

 雨の日に橋の錆びを削り、苔を取り除き

一日かけてペンキを塗ってくれた人がいる。

 その人の手によつて、橋が輝きを

取り戻した。

 橋を渡った場所には、その労働を称える

かのようにスミレが咲きほこっている。

 人のこころにも穴があいたり、色あせたり

ささくれ立ってざらざらになり痛むことがある。

その痛みを和らげてくれるのも、人の温かさ

であると思う。

「文蔵の滝き」に生存競争を見た

  今年も滝の桜が咲き始めた。

年々花の数が少なくなっていくのが寂しい。

 春の訪れは植物にとって試練の季節でも

ある。

 毎年スミレ一色になる場所には、

名も知らない野草が顔を出している。

 両者、生死をかけてある限りの力で

競っているのだ。

 いっぱいの花をつけた椿の回りでは、

樹木の肌に大蛇をおもわせる「蔓」が

絡み付き、上へ上へと締め付けながら

はい上がっていく。

 長い時間の経過が、勝敗を決めるだろう。

滝の澄んだ空気に包まれると、人間も自然

そのものであること、そして生き物である

自分もなにかと競っているのだろう。

 

 

 

 

 

歩き遍路の記憶「文蔵の滝」

 雨の中をしばらく車が進んでいくと、

速度がゆっくりになり、車の列もできてくる。

 一台二台と左の道に入り、すぐ前の車は

追い越し禁止にもかかわらずいってしまった。

 必然的に原因となる車は目の前になり

それは、バスを引っ張っぱっている

レッカー車であった。

 バスの後尾には、「四国巡礼二十三番札所

薬王時」と、大きな広告があった。

 徳島県最後の札所となる薬王寺

日和佐町にあり、高台にあるお寺から

見渡す海は美しかった。

 砂浜にはウミガメが産卵にくる。

近くでウミガメを見る事もできたのだ。

 この後、「二十四番札所最御崎寺」は

八十六キロ先で高知県になる。

 国道五十五号線を左に海を見ながら

うねうねと長く続く厳しい道程を

三泊してやっと辿り着くのである。

 そんなことを思い出しているうちに到着。

まだ雨は降りつづいている。

 

 

 

行ってしまった。

木+春=椿「文蔵の滝」

 道すがら目に入るのは、家々の庭に咲く

モクレンの花である。

 空に向かって大きく開く白い花は、

純白のウエデングドレスとブーケを

連想させる。

 滝の回りの雨に濡れた地面には、

そのままの形を留めた椿の花が点在する。

 椿=「木」で作ってもらった杖に力を借り

ながら、「春」の歩き遍路でのことが

思い出される。

 四国最南端足摺岬には、38番札所

金剛福寺がある。

 その道中は、雄大な太平洋と多くの

椿に迎えられたのである。

 今思い返すと、童謡の歌詞そのままの

風景の中を歩いた気がする。

 

強敵は我なり「文蔵の滝」

 滝行をしていても「無」になれない。

頭の中はまるで走馬灯。

 以前自分の感情にあたふたしたが、

今は開き直ることもおぼえた。

 自分と向き合う時なのだと腹を据えている。

時々、雨や暑い日でもお寺を目差し

歩き続けた遍路での出来事を思い出す。

 四国88か所を巡る歩き遍路は

自分と向き合う旅である。

 今思い出しても恥ずかしい行いが多々ある。

我がまま、焦りが自分の思考力を奪って

しまうからだ。

 そんな気持ちを安らげてくれるのが、

地元の人々との一期一会なる出会いである。

 優しさ、心遣いが明日への力になる。